戦後75年…

私たちの国、日本で最後の戦争が終結して
75年という月日が流れました。

私の両親は、山間部に住んでいたため
直接戦争の被害に遭うことはなかったのですが

夫の父が、広島市中心部から
約20Km東方の町に住んでいました。

2018年の原爆ドーム・海外からもたくさん来訪



当時、小学校1年生か2年生。

丁度、小学校のグラウンドに整列して
校長先生の話を聞いている最中に
戦闘機のエンジン音が響き渡り
見上げると、B29が広島市中心部へと
飛んで行く様子を見上げたのだとか…。

原子爆弾の爆発の衝撃が轟き、
先生からは即、帰宅するよう指示されたとか。

家に帰ってみると
爆風で窓ガラスが割れていたそうです。

この距離で…!! と驚きましたが…



75年目の今年、
twitter で拝見したこの画像に
納得したのでした。

画像が撮影された「呉市」は、
その町より更に、20Km東。

つまり、義父が見た「きのこ雲」は
この画像よりも、もっと近く
もっと大きかったことになります。


tweetされた渡邉さんは、東大大学院教授。
戦前や戦争中に撮影された白黒画像を
AI(人工知能)を使ってカラー化されています。

この夏、写真集を出版されました。

tweet を拝見すると、ヒロシマ・ナガサキだけでなく
広島近郊でしたら、呉市や福山市、そして岩国市の
空襲の画像も、カラー化されています。

AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争 (光文社新書)

この頃の画像がカラー化されることで、
よりリアルな史実として、
画像が迫って見えて来ます…。

人々の様子に、胸がつまりそうですが
よりリアルに感じることで

争いを避けるための力になれば、と思います。




義父よりも少し年長の、当時中学生の生徒たちは
広島市中心部の「建物疎開」に駆り出され
この雲の下で、多くの子どもたちが被害に遭ったそうです。

私が知っている高齢の女性は、
丁度、建物の影に居て、命を取り留めたそうです。

そこから、家まで帰るのが大変。

現代の電車で15分の距離。

当時、汽車は走っていましたが
もちろん、原爆投下後は走るはずもなく…

ひたすら、家がある方向に向かって歩き続けたとか。

ようやく3日目に、同じく
娘を探しに中心部へと向かって歩いて来ていた
お母さんと出会えたのだそうです。


その時まで、その女性は

「お母さん、迎えに来て!」

「どうして迎えに来てくれんの(くれないの)!?」

そう思いながらひたすら歩いたことを
今でも忘れないと仰っていました。

母親としては、胸がつまるお話です…。


月面から見た地球  Copyright:NASA



2018年に亡くなられた「スティーブン・ホーキング」氏が、
人類は「100年以内に新たな惑星を見つける必要がある
それが、「われわれを、われわれ自身から救う唯一の手段」
と思うと、生前語っておられました。

ビッグ・クエスチョン 〈人類の難問〉に答えよう

もちろん、それは、すぐすぐ…ということではないかもしれません。
私などが生きている間は、まだそこまでの変化は
ないかもしれませんが

子どもたちが高齢になる頃、
あるいは、そのまた次の世代が…と考えると

ホーキング博士の危機感も、共有できる気がします。



この星の豊かさを維持していけるよう
この星で、自ら、より豊かに生きていけるよう

困難な状況も乗り越えていく
創意工夫する力を…


この壮大な宇宙の中で、まさに絶妙なバランスを保って
豊かな自然と生命活動を維持しているこの小さな惑星
「地球」の中で、

「分断」や「争い」ではなく、
力を合わせて、より良く生きられるよう…

そう願いながら、この「宇宙を学ぶ機会づくり」を
続けて行きたい

そう思った、75年目の夏でした。