私たちの国、日本で最後の戦争が終結して
75年という月日が流れました。
私の両親は、山間部に住んでいたため
直接戦争の被害に遭うことはなかったのですが
夫の父が、広島市中心部から
約20Km東方の町に住んでいました。

当時、小学校1年生か2年生。
丁度、小学校のグラウンドに整列して
校長先生の話を聞いている最中に
戦闘機のエンジン音が響き渡り
見上げると、B29が広島市中心部へと
飛んで行く様子を見上げたのだとか…。
原子爆弾の爆発の衝撃が轟き、
先生からは即、帰宅するよう指示されたとか。
家に帰ってみると
爆風で窓ガラスが割れていたそうです。
この距離で…!! と驚きましたが…
75年目の今年、
twitter で拝見したこの画像に
納得したのでした。
画像が撮影された「呉市」は、
その町より更に、20Km東。
つまり、義父が見た「きのこ雲」は
この画像よりも、もっと近く
もっと大きかったことになります。
こちらが元の白黒写真。 pic.twitter.com/rOhw0198ps
— 渡邉英徳 (@hwtnv) August 5, 2020
tweetされた渡邉さんは、東大大学院教授。
戦前や戦争中に撮影された白黒画像を
AI(人工知能)を使ってカラー化されています。
この夏、写真集を出版されました。
tweet を拝見すると、ヒロシマ・ナガサキだけでなく
広島近郊でしたら、呉市や福山市、そして岩国市の
空襲の画像も、カラー化されています。
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この頃の画像がカラー化されることで、
よりリアルな史実として、
画像が迫って見えて来ます…。
人々の様子に、胸がつまりそうですが
よりリアルに感じることで
争いを避けるための力になれば、と思います。
義父よりも少し年長の、当時中学生の生徒たちは
広島市中心部の「建物疎開」に駆り出され
この雲の下で、多くの子どもたちが被害に遭ったそうです。
私が知っている高齢の女性は、
丁度、建物の影に居て、命を取り留めたそうです。
そこから、家まで帰るのが大変。
現代の電車で15分の距離。
当時、汽車は走っていましたが
もちろん、原爆投下後は走るはずもなく…
ひたすら、家がある方向に向かって歩き続けたとか。
ようやく3日目に、同じく
娘を探しに中心部へと向かって歩いて来ていた
お母さんと出会えたのだそうです。
その時まで、その女性は
「お母さん、迎えに来て!」
「どうして迎えに来てくれんの(くれないの)!?」
そう思いながらひたすら歩いたことを
今でも忘れないと仰っていました。
母親としては、胸がつまるお話です…。

2018年に亡くなられた「スティーブン・ホーキング」氏が、
人類は「100年以内に新たな惑星を見つける必要がある」
それが、「われわれを、われわれ自身から救う唯一の手段」
と思うと、生前語っておられました。
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もちろん、それは、すぐすぐ…ということではないかもしれません。
私などが生きている間は、まだそこまでの変化は
ないかもしれませんが
子どもたちが高齢になる頃、
あるいは、そのまた次の世代が…と考えると
ホーキング博士の危機感も、共有できる気がします。
この星の豊かさを維持していけるよう
この星で、自ら、より豊かに生きていけるよう
困難な状況も乗り越えていく
創意工夫する力を…
この壮大な宇宙の中で、まさに絶妙なバランスを保って
豊かな自然と生命活動を維持しているこの小さな惑星
「地球」の中で、
「分断」や「争い」ではなく、
力を合わせて、より良く生きられるよう…
そう願いながら、この「宇宙を学ぶ機会づくり」を
続けて行きたい
そう思った、75年目の夏でした。